はじめまして、長岡市移住コンシェルジュの中島 はな(なかしま はな、写真右下)です。
2025年9月から長岡市地域おこし協力隊として活動を開始し、ちょうど1ヶ月経ちました。
自己紹介がてら、長岡市の地域おこし協力隊になった理由を、今までのキャリアを振り返りつつ、葛藤と想いもふくめてご紹介したいと思います。
世界の中の日本を意識し始めて
1999年に世界文化遺産「姫路城」のある兵庫県姫路市で生まれました。
余談ですが、長岡では「生姜醤油ラーメン」が有名ですが、姫路にも生姜醤油をつけて食べる「姫路おでん」というものがあります。
さて、小学校から大学までは、ずっと県内の学校に通っていましたが、高校2年生のときにはイタリア・シチリア州に留学する機会に恵まれました。
イタリアを選んだのは、食べることが大好きで、美大受験を視野に入れていたのでアートに関心があったからです。
そして、多くの人がアメリカや中国などを言語習得といった実利的な理由で選ぶ中、人と違う経験をしたいと思っていました。
いざ渡航すると、住んでいた町にはアジア人が1人もいなかったため、無知から来る差別は日常茶飯事。
暴力だったり、いじめだったり、そこまでひどいことはされていませんが、町を走る日本車とキッコーマンのお醤油(英語パッケージ)で故郷に思いを馳せ、心を慰める日々でした。
一方、地元のローカルな音楽隊に入り、日々の練習や演奏会、お祭りでの行進をともにする中で、今でも連絡を取り合うかけがえのない友人たちと出会います。
今思えば「周りと違うこと」を期待され、意識させられる環境のなかで、あえて自ら「日本」をステレオタイプ化することで、同級生やホストファミリーとの関係性をうまく回していたように思います。
同時に、世界の中での日本を意識し始めたのもこの経験からでした。

机上の空論ではなく、現場主義へ
さて、留学経験もあったこと、また、美大受験にも想いが足りず挫折したため、大学は迷わず国際学部を選びました。
在学中、日本ではすでに失われた経済成長の熱気を体感したくて、そして、能力主義が徹底されているというシンガポールへ交換留学しました。
この時まではまだ、日本の経済再興に携われるグローバルなキャリアを歩みたいなとぼんやり思っていました。
シンガポールからの帰国後にパンデミックになり、国境が閉ざされてしまったのでグローバル以外のことに関心を持ち始めました。
地元・姫路市でベトナム人技能実習生が急増していることを受けて、技能実習生制度の限界や多文化共生をテーマにした卒業論文の執筆に取りかかります。
卒業こそできましたが論文の出来は、今思えばとてもひどいものでした。
実践経験のないまま飛びついたテーマだったため課題の解像度が低く、また、当事者や彼らを支援する個人・団体へのフィールドワークなどを実施する方法が分からず、ただただ偉そうな論文になったのでした。
この経験があり、「日本」という言葉を安易に、そして、自分のためだけに使ってきたことを恥じるとともに、机上だけで考えついた響きの良い言葉を並べるのは辞めようと決意します。

500人が住む村で、地域課題の最先端を経験して
大学在学中に内定をいただいていた会社は春ではなく、秋に入社式が予定されていました。
そのため、卒業論文の後悔もあって、大学卒業後の半年間に、大学生と地元企業をつなぐコーディネーターとして福島県のとある村で住み込みで働き始めます。
その村は元原発避難区域で、居住人口は約500人。
2011年の東日本大震災後の数年間、村に戻りたくとも戻れないというもどかしい時間を経験した地域です。
震災が残した遺恨の中で、産業や文化が一度ゼロになってしまうこと、そして、人がいなくなっていくという、それまでの生活では考えもしなかった前提の中で活動することとなります。
震災を経験しておらず外からやってきた自分は、当事者になれないことにモヤモヤする日々でしたし、実際その態度を批判されることもありました。
また、福島だけでなくほかの被災地域と接点を持つ中で、地域貢献したいと願う移住者ともともとの住民のハレーション、地域に求められているにも関わらず、金銭面でうまく回らずに消えていってしまう取り組みなど、いろいろ見ました。
一方で、縮小していく社会に新しい可能性を見出して、創意工夫を続け、地域一丸となってしっかりと稼ぐことで、持続可能な地域を作っているパワフルなキーマンたちにも出会いました。
そのため、急激な環境の変化があっても立ち直ることのできるしなやかな産業と人づくり=まちのソフトやハードづくりが、できるようになりたいと思いました。
また、地域だからこそ自分のやったことがすぐに結果として返ってくる楽しさと、一枚岩ではない地域でものごとを進める難しさの両方を経験するなど、その後のキャリアの指針になる原体験をします。

一度ローカルを離れて見えてきたもの
福島でのプロジェクトが終了し、学生時代に内定していた外資系のIT企業に入社します。
しかし、一歩も家の外から出ないフルリモートワークで、決められたルーティーンとKPIを淡々とこなす毎日が待っていました。
また、成果を出すための仕組みが整っており、自分でなくともできる仕事で命を削り、昇進していくことが自分の理想ではないと感じて、キャリアを再度模索します。
転職の際に求めたのは、明日、1ヶ月後、1年経っても繰り返される変わらない「予定」ではなく、明日何が起こるかわからない「変化」の中に身を置くこと。
そして、上司の上司の上司の上司が考える仕組みではなく、自分が考えた仕組みで外貨を稼ぎ、地域内で循環させられるまでの経験と実力でした。
そこで、日本各地のベンチャー企業やまちづくり団体へ足を運び、転職活動を開始します。
このときは、任期や制度に縛られずに生きる場所を好きなときに自分で選べるようにしたかったので、地域を限定して活動する「地域おこし協力隊」への志望度は低かったです。

都会でイケイケで働くか、地方でイキイキ働くか
そんなある日、少し変わった転職エージェントを見つけました。
サイトに掲載されているのは全て地方企業の求人なのですが、内容は「新規事業開発」や「事業責任者」ばかり。
しかも、2年間で成果を出してね、という条件付き。
これならば、地方だけれど、イケイケもイキイキも実現できそうだ!
その転職エージェントから、新潟県の離島・佐渡島へのフェリーを運航する船会社を紹介いただき、新潟県にご縁をいただきました。
会社では、広報として情報発信のコンセプトを一新したり、新規事業として古民家を改修した宿泊施設の開業に携わりました。
また、交通インフラ企業として経済的な価値以外の部分で社会とつながれていることにやりがいを感じていました。
2年目には、港をまるごと遊び場にして、新潟市にいながら佐渡島に出逢える、カオスでゆるいイベントを開催させていただきました。
日々素敵な上司と同僚に囲まれ、佐渡島にも毎週・毎月のように通う中で、福島の経験で硬直していた「地域のあるべき論」も、ふんわりと耕され、発酵させる楽しみを感じられるようになりました。
ここで、転職エージェントが課した「2年間」が効いてきます。
立ち止まってキャリアを見つめ直すタイミングとなったことで、自身のビジョンである「ソフトとハードのまちづくり」の力は今の会社で本当に身についているのだろうか?という疑問がふつふつと湧いてきます。
そんな中、現職の協力隊活動支援企業の代表にお声がけいただいたことをきっかけに、長岡で移住・定住促進の協力隊を募集していることを知り、興味を持つことになります。

なぜ長岡?なぜ協力隊?
こうして、長岡で働くことについて本格的に検討し始めます。
結論から申し上げますと、協力隊の仕事を選んだ理由は、自分のなりたい姿に近づけることと、長岡市のお役に立てそうだったからです。
長岡市は、戦災や震災から何度も立ち直ってきた過去があり、とってもしなやかでパワーのあるまちだと感じます。
市民活動も盛んで、官民学問わず小さいコミュニティがたくさんあるのですが、私の役目は、これらのコミュニティを渡り鳥のように訪ねて、かき混ぜることです。
飛び回ることはとっても得意なので、移住をキーワードに、官民のパートナーシップ構築といったソフト面、空き家再生などのハード面を、まちの皆さんと盛り上げていけると考えています。
そして、長岡市である理由は、公私ともにイキイキと生活している姿を想像できたからです。
特に私の部分では、趣味であるスウィングダンスが長岡史上未踏であるということを聞き及び、使命感を持ちました。
早速、移住1ヶ月目にしてサークルを立ち上げて定期的な練習会を実施、すでにメンバーは5名に!
立ち上げ記念パーティーも予定していますし、ダンサー100名を目指して精力的に活動中です。

最後に
縁もゆかりもないとは書いていますが、なにごとにも理由はあるものだなと、ブログを書きながら思い返していました。
今後は、とにかくまちに出ていき、顔を売っていきたいなと思ってます。
日本酒はかなり好きです!
引き続きどうぞよろしくお願いいします!


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